http://www2.nkansai.ne.jp/users/syura/nenpu/nenpu.htmlより

1839(天保10)0820 晋作、現在の山口県萩市に生まれる
1848(嘉永01)0000 晋作10歳、天然痘青木周弼.研蔵の看病により危機を乗切る
1854(嘉永06)0000 晋作15歳、ペリー浦賀に来航
1857(安政04)0000 晋作19歳、久坂玄瑞に誘われ松下村塾に入門
1858(安政05)0700 晋作20歳、文学修行のため江戸へ
1858(安政05)0900 晋作20歳、安政の大獄始まる
1859(安政06)0525 晋作21歳、吉田松陰江戸送りとなる
1859(安政06)0000 晋作21歳、獄中の松陰より晋作への書簡は、10数通に及ぶ
1859(安政06)1017 晋作21歳、藩命により帰萩の途につく
1859(安政06)1000 晋作21歳、松陰より死生観を記した手紙が渡される
1859(安政06)1027 晋作21歳、吉田松陰処刑。
1860(万延01)0100 晋作22歳、雅子(16歳)と結婚
1860(万延01)0100 晋作22歳、桜田門外の変
1860(万延01)0200 晋作22歳、藩の軍艦教授所に入学
1860(万延01)0300 晋作22歳、丙辰丸にて江戸へ向う 「東帆録」を書く
1860(万延01)0800 晋作22歳、東北へ遊歴
1860(万延01)0900 晋作22歳、佐久間象山横井小楠と会見「試撃行日譜」執筆
1860(万延01)1100 晋作22歳、東帆・試撃行の旅を終え帰萩明倫館舎長へ復帰
1860(万延01)1200 晋作22歳、1柳生新陰流の免許皆伝を受ける
1861(文久01)0300 晋作23歳、世子定広の小姓役を命じられる
1861(文久01)0300 晋作23歳、「贄御日記」執筆。松陰「幽室文稿」を読む
1861(文久01)0700 晋作23歳、藩役人、番手で江戸へ 「初番手行日記」執筆
1862(文久02)0100 晋作24歳、藩より上海行きを命じられ長崎へ船にて向かう
1862(文久02)0100 晋作24歳、長崎にて海外の状況を収集
1862(文久02)0427 晋作24歳、長崎を出帆。船中、体調すぐれず。病魔が忍ぶ?
1862(文久02)0500 晋作24歳、5月〜7月まで上海視察
1862(文久02)0800 晋作24歳、8月長崎>京都>江戸  江戸にて脱藩
1862(文久02)0800 晋作24歳、加藤有隣に会う。その後、結局藩邸に帰る。
1862(文久02)1100 晋作24歳、11月攘夷実行のため夷人殺害計画を立てるが中止
1862(文久02)1200 晋作24歳、12月イギリス公使館を焼き討ち。
1863(文久03)0100 晋作25歳、1月吉田松陰の遺骨を改葬。現世田谷松陰神社
1863(文久03)0300 晋作25歳、3月京都で天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸を参観。
1863(文久03)0300 晋作25歳、藩へ10年の暇を願い許される。
1863(文久03)0300 晋作25歳、頭を剃り「東行」と号す。
1863(文久03)0400 晋作25歳、4月萩、松本村にて隠棲。(草庵)
1863(文久03)0500 晋作25歳、5月長州藩、馬関で外国船と交戦。
1863(文久03)0600 晋作25歳、6月には戦況悪化。
1863(文久03)0600 晋作25歳、6月藩主より馬関防禦を一任される。
1863(文久03)0607 晋作25歳、6月7日(正式には11日)奇兵隊 を組織。
1863(文久03)0800 晋作25歳、8月法教寺事件。
1863(文久03)0900 晋作25歳、9月奇兵隊総督を免じられる。
1863(文久03)1000 晋作25歳、10月百六十石を給せられ、奥番頭役に任ぜられる
1864(元治01)0100 晋作26歳、1月来島又兵衛にののしられ脱藩し京へ向かう。
1864(元治01)0200 晋作26歳、2月桂小五郎の説得で再び萩へ帰る
1864(元治01)0300 晋作26歳、3月脱藩の罪で野山獄に投じられる。
1864(元治01)0600 晋作26歳、6月出獄、自宅にて謹慎。
1864(元治01)0700 晋作26歳、7月蛤門の変。久坂玄瑞ら自刀。
1864(元治01)0800 晋作26歳、8月連合艦隊馬関を襲う。
1864(元治01)0800 晋作26歳、晋作、連合艦隊と講和談判 3回目に講和条約締結
1864(元治01)0900 晋作26歳、9月井上聞多襲われる。
1864(元治01)0900 晋作26歳、藩内で幕府支持の俗論派が勢力を強める。
1864(元治01)0900 晋作26歳、正義派周布政之助自刀。
1864(元治01)1000 晋作26歳、10月長男梅之進(東一)生まれる。
1864(元治01)1000 晋作26歳、俗論派から逃れるため、谷梅之助名で九州へ亡命
1864(元治01)1100 晋作26歳、11月野村望東尼の平尾山荘に潜伏。
1864(元治01)1112 晋作26歳、11月12日俗論派、正義派家老を処刑。
1864(元治01)1125 晋作26歳、11月25日上記の処刑を聞き、馬関へ帰国。
1864(元治01)1200 晋作26歳、12月正義派の処刑で第一回長州征伐をのがれる。
1864(元治01)1215 晋作26歳、夜半、遊撃隊、力士隊武力挙兵。(功山寺挙兵)
1864(元治01)1216 晋作26歳、12月16日馬関の萩本藩会所を占領。
1864(元治01)1216 晋作26歳、海上制圧のため三田尻の軍艦3艇を奪う。2000名
1865(慶応01)0102 晋作27歳、1月2日赤間関で再び挙兵。
1865(慶応01)0116 晋作27歳、16日大田絵堂の合戦に勝利。
1865(慶応01)0122 晋作27歳、22日山県狂介等と山口へ。
1865(慶応01)0202 晋作27歳、2月2日クーデター成功。藩論統一される。
1865(慶応01)0300 晋作27歳、伊藤と洋行を志し長崎へ、グラバー説得で中止。
1865(慶応01)0300 晋作27歳、馬関へ引き返し下関開港に奔走する。
1865(慶応01)0400 晋作27歳、4月長府藩士にねらわれ脱藩、おうのと四国へ亡命
1865(慶応01)0400 晋作27歳、日柳燕石宅に潜居
1865(慶応01)0600 晋作27歳、6月桂小五郎の斡旋で帰藩。
1865(慶応01)0900 晋作27歳、9月桂と共に海軍興隆用掛、馬関の開港を目指す。
1865(慶応01)1000 晋作27歳、赤間関で坂本竜馬、桂小五郎と回天の策を謀る。
1866(慶応02)0200 晋作28歳、2月坂本竜馬による薩長同盟成立。
1866(慶応02)0300 晋作28歳、3月薩英会盟へ加わるべく長崎へ向う。
1866(慶応02)0400 晋作28歳、4月鹿児島行きを中止する。
1866(慶応02)0400 晋作28歳、上海外遊を志すが再びグラバーに止められる。
1866(慶応02)0400 晋作28歳、軍艦オテント丸単独購入。36250両(後の丙寅丸)
1866(慶応02)0605 晋作28歳、6月5日幕府の第二次長州征伐始まる。
1866(慶応02)0606 晋作28歳、6日晋作海軍総督を命じられる。
1866(慶応02)0612 晋作28歳、丙寅丸、久賀沖に停泊中の幕府軍艦4隻奇襲攻撃。
1866(慶応02)0617 晋作28歳、小倉口の戦。丙寅丸等で砲撃。田の浦、門司占領
1866(慶応02)0700 晋作28歳、再び海峡を渡り、大里を攻撃。体調悪さを訴える
1866(慶応02)0700 晋作28歳、将軍家茂死去、慶喜将軍となる。 
1866(慶応02)0800 晋作28歳、8月小倉城炎上、長州軍四境戦争に圧勝。
1866(慶応02)0800 晋作28歳、休養のため愛人おうのと屯所を離れる。
1866(慶応02)0904 晋作28歳、9月4日血痰を吐く。
1866(慶応02)0916 晋作28歳、野村望東を姫島より救出、白石正一郎宅へ迎える
1866(慶応02)1000 晋作28歳、10月役職を免じられる。
1867(慶応03)0300 晋作29歳、藩主は新たに100石を与え谷家を創立させる。
1867(慶応03)0300 晋作29歳、谷潜蔵と改名。
1867(慶応03)0414 晋作29歳、4月14日午前2時 死去。
1867(慶応03)0414 晋作29歳、4月16日遺言で奇兵隊ゆかりの地、現東行庵に葬る
1867(慶応03)0414 晋作29歳、10月大政奉還