年譜

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1830(天保01)0920 吉田松陰生まれる
1835(   )0000 松蔭、数え年5歳で仲父吉田大助の仮養子
1836(   )0000 松蔭、山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ
1841(   )0000 松蔭、11歳の時、藩主毛利敬親に武教全書を講じた
1845(弘化02)0000 松蔭、山田亦介から長沼流兵学を学び、
1845(弘化02)0000 松蔭、長沼流兵学の免許を受ける。
1849(嘉永02)0000 松蔭、20歳の時、長州沿岸を巡遊
1850(嘉永03)0000 松蔭、九州を巡遊。幕藩体制の矛盾外圧を身をもって感じた
1851(嘉永04)0000 松蔭、兵学研究のため藩主に従い江戸へ、安積艮斎等に従学
1851(嘉永04)1200 松蔭、友人との約束により藩から許可を得ず東北へ歴遊
1851(嘉永04)1200 松蔭、藩邸亡命の罪で士籍を削られ、杉家育(はぐくみ)へ
1851(嘉永04)1200 松蔭、自由となり、藩も松陰の遊学を認めた。
1853(嘉永06)0600 松蔭、ペリー来航の報をえて浦賀に行き、黒船を眼前に見る
1853(嘉永06)0600 松蔭、長崎来泊中のロシア艦に乗り込もうとしたが失敗した。
1854(嘉永07)0300 松蔭、下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求めたが、拒絶
1854(嘉永07)0300 松蔭、唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が開始
1854(嘉永07)1200 松蔭、出獄し、杉家に幽居された。
1856(安政03)0000 松蔭、宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け、一君万民論を彫琢
1857(安政04)1100 松蔭、杉家宅地内の小屋を教場とし、私塾松下村塾を主宰
1857(安政04)1100 松蔭、高杉、久坂玄瑞吉田稔麿伊藤博文山県有朋教える
1858(安政05)0700 松蔭、日米修好通商条約調印を建言、
1858(安政05)0700 松蔭、討幕論を唱え、老中間部(まなべ)詮勝暗殺を画策。
1858(安政05)0700 松蔭、幕府の違勅調印事態に直面して直接行動を計画失敗
1858(安政05)1200 松蔭、12月藩命により下獄。
1858(安政05)1200 松蔭、その絶望の中ではじめて草莽崛起論に到達し、
1858(安政05)1200 松蔭、変革の担い手は在野の志士であり、
1858(安政05)1200 松蔭、百姓一揆のエネルギーを無視できないことを自覚した。
1859(安政06)0600 松蔭、藩命で江戸に送られ
1859(安政06)1025 松蔭、死を予知して遺書を書き始め、
1859(安政06)1026 松蔭、翌日の暮れにまでおよんだという。全編を留魂録と命名
1859(安政06)1026 松蔭、その翌日、斬首に処せられる。年30。1121?