年表(1699年まで)
▲5000( ) 黄河文明が黄河中流域で誕生
▲5000( ) 黄河文明の前半を仰韶文化(〜前3000年頃)
▲2900( ) 黄河文明後半は龍山文化(前2900〜前2000年頃)
▲2500( ) インドに最初に生まれた文明、インダス文明(〜前1800)
▲2000( ) アーリア人、移動開始、何回かインド侵入
▲2000( ) クレタ文明(〜前1500年位迄)
▲2000( ) アッシリア人、ティグリス川上流アッシュールで交易活動
▲1800( ) インダス文明が滅ぶ
▲1600( ) 商(〜前1027年)
▲1500( ) アーリア人、パンジャーブ地方定着
▲1500( ) クレタ文明終了
▲1400( ) アッシリア、一時独立回復
▲1200( ) ミケーネ文明が滅んでから数百年間は暗黒時代。
▲1027( ) 周中心連合決戦勝利(商滅亡)
▲1000( ) アーリア人、ガンジス川流域まで拡がる
▲1000( ) アーリア人、鉄器を使用する,ガンジス川流域へと急速に進出した。
▲1000( ) 身分制の始まりが前1000年くらい
▲932( ) 北部に成立したのがイスラエル王国(前932〜前722)
▲932( ) 南部にできたのがユダ王国(前932〜前586)。
▲900( ) アッシリア、前9世紀頃から急速に勢力を伸ばしてきました。
▲800( ) オリエント全域をアッシリア帝国が統一しました。
▲800( ) ギリシャ、ホメロス(前8世紀)「イーリアス」「オデュッセイアー」
▲800( ) ローマは前8世紀頃ラテン人によって建国されました。
▲800( ) 前8世紀頃になって、ギリシア文明が姿をあらわしてきます。
▲800( ) 前8世紀頃にはギリシアの各地域の人々が集まり住み始めポリス社会が形成
▲800( ) ギリシャ、オリンピアの祭典、いわゆるオリンピックです4年ごとに開催
▲771( ) 周の時代は大きく二つに分かれる。前半を西周(前1027〜前771)
▲770( ) 後半が東周(前770〜前256)です。
▲722( ) 北部に成立したのがイスラエル王国(前932〜前722)。
▲700( ) ギリシャ、ヘシオドス(前700年頃)「労働と日々」「神統記」
▲621( ) ギリシャ、平民の不満を鎮めようとしました。ドラコンの法(前621)
▲612( ) アッシリア、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは前612年に陥落
▲612( ) オリエント、アッシリア滅亡後、四国分立時代(〜前525)という。
▲609( ) 前609年、アッシリア帝国は滅亡しました。
▲600( ) ローマ、前6世紀には王を追放して共和政が始まりました。
▲600( ) 儒家の元祖が孔子(前6〜前5世紀)です
▲600( ) ギリシャ、抽象の極限がピタゴラス(前6世紀)でしょうか
▲594( ) ギリシャ、ソロンの改革によって貴族政治はついに終わり
▲586( ) 南部にできたのがユダ王国(前932〜前586)。
▲580( ) ギリシャ、哲学者、その最初の人がタレース(前580年頃活躍)です。
▲563( ) 仏教の開祖はガウタマ=シッダールタ(前563〜前483頃)
▲561( ) ギリシャ、ペイシストラトス独裁政治を行いました。これを僭主政治
▲550( ) アケメネス朝ペルシャ、前550年、メディアの政権を奪う
▲528( ) ギリシャ、ペイシストラトスの独裁政治、僭主政治終了
▲525( ) オリエント、アッシリア滅亡後、四国分立時代(前612〜)終わる
▲508( ) アテネには民主政治が確立してきます 第一段階。クレイステネスの改革
▲500( ) ガンジス流域、小国家 前5世紀頃です。代表的な国がコーサラ国とマガタ国。
▲500( ) 儒家の元祖が孔子(前6〜前5世紀)です
▲500( ) こ仏教とジャイナ教生まれる
▲500( ) ギリシャ、喜劇作家では、アリストファネス(前5世紀)
▲500( ) ギリシャ、ヘラクレイトス(前500年頃)は「万物の根元は火である」
▲500( ) ギリシャ、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス(前5世紀)
▲494( ) ローマ、平民たちが聖山という山に立て籠もってストライキを起こした事件
▲492( ) アテネ民主政治の第二段階はペルシア戦争(前492〜前479)です。
▲490( ) ギリシャ、ソフィストで最も有名なプロタゴラス生まれる
▲490( ) ペルシャ戦争、最初の大きな戦いが前490年、マラトンの戦いです。
▲480( ) ペルシャ戦争、テルモピレーの戦い(前480)です。
▲479( ) アテネ民主政治の第二段階ペルシア戦争終了(相手ギリシャ)
▲470( ) ギリシャ、ソクラテス(前470頃〜前399)です。生まれる
▲460( ) ギリシャ、デモクリトスは、大事だ。「万物の根元は原子(アトム)」
▲451( ) ローマ、十二表法制定。12枚の銅板に法律を刻んで誰もが見られる
▲443( ) アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(前443〜前429)
▲429( ) アテネ民主制発展の最終段階、ペリクレス時代 終わる
▲427( ) プラトン生まれる-前347 古代ギリシア最大の哲学者。弟子アリストテレス
▲420( ) ギリシャ、ソフィストで最も有名なプロタゴラス死亡
▲403( ) この東周の時代,前半を春秋時代(前770〜前403)、
▲400( ) 孔子以後の儒家の学者で重要な人が孟子(前4〜前3世紀)
▲399( ) ギリシャ、ソクラテス(前470頃〜前399)です。 死亡
▲367( ) ローマ、リキニウス=セクスティウス法。執政官のうち一名を平民から選出
▲317( ) はじめて北インド全体を統一する王朝が登場します。これがマウリヤ朝
▲309( ) 趙の武霊王。この人は軍隊を強くすべく騎馬遊牧民族の戦法を導入したんです
▲300( ) 孔子以後の儒家の学者で重要な人が孟子(前4〜前3世紀)
▲287( ) ローマ、ホルテンシウス法。平民の議会である平民会の決定を国法とする法律
▲272( ) ローマ、周辺の都市国家や部族を征服しイタリア半島を統一しました
▲268( ) マウリヤ朝の三代目の王が有名なアショーカ王(位前268〜前232頃)
▲264( ) ローマ・カルタゴのポエニ戦争は前264年〜前146年になっています
▲256( ) 後半が東周(前770〜前256)です。
▲221( ) 後半を戦国時代(前403〜前221)という。
▲221( ) 前221年、秦が中国を統一しました。秦の都は咸陽(かんよう)
▲218( ) ポエニ戦争、ハンニバル戦争(第二回戦)(前218年〜前201年)。
▲202( ) 秦にかわって劉邦が建てた王朝が漢です前漢(前202〜後8)と呼びます。
▲201( ) ポエニ戦争、ハンニバル戦争(第二回戦)(前218年〜前201年)。
▲180( ) インド、ウマリア朝、滅亡
▲146( ) ローマ・カルタゴのポエニ戦争は前264年〜前146年になっています
▲146( ) 東方のマケドニア、ギリシアもローマによって征服されました。
▲141( ) 前漢、六代目景帝のときに呉楚七国の乱(前141)がおきます。
▲133( ) ローマ、兄グラックスはボコボコに殴られて殺されてしまいます。改革は潰
▲107( ) ローマ軍の弱体化問題は残った。マリウスの軍制改革で解決
▲ 91( ) イタリアの都市がローマ市民権を求めてローマに反乱、同盟市戦争という。
▲ 88( ) 同盟市戦争終了
▲ 73( ) ローマ、前73〜前71年には有名なスパルタクスの乱。
▲ 71( ) ローマ、前73〜前71年には有名なスパルタクスの乱。
▲ 70( ) 前70年頃のローマ市人口がだいたい50万。
▲ 60( ) 有力将軍三人による談合が成立し、彼らがローマの政権を握ることに
▲ 58( ) ローマ、そのカエサルですが前58年からガリア遠征に出ました。
▲ 46( ) ローマ、カエサル、終身独裁官になった。事実上の独裁者といってよい。
▲ 43( ) ローマ、オクタヴィアヌスアントニウス、レピドゥスの三人第二回三頭政治
▲ 31( ) ローマ、アクティウムの海戦でアント・クレオ連合軍はオクタに敗二人自殺
▲ 27( ) ローマ、オクタヴィアヌスは事実上の帝政を開始しました。
▲ 4( ) イエスは前4年くらいに生まれて、後30年くらいに死んでいます。
0( ) インド、クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)。これはイラン系の民族が支配者
8( ) 都は長安。漢は前後半に分かれるので普通は前漢(前202〜後8)
30( ) イエスは前4年くらいに生まれて、後30年くらいに死んでいます。
57( ) 漢の洛陽まで使節を送ったのは「奴の王」です。
57( ) 倭国王、後漢に遣使。
70( ) 西暦70年代のローマ帝国の繁栄時の文化
96( ) その後始まるのが五賢帝時代(96〜180)です。
100( ) 大乗仏教の理論を大成した人がナーガルジュナ
107( ) 倭国王、後漢に遣使。
130( ) カニシュカ王(位130〜170頃)が、仏教を保護し第四回仏典結集
235( ) ローマ、235年〜284年、この時代を軍人皇帝時代といいます
239( ) 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使
284( ) ローマ、235年〜284年、この時代を軍人皇帝時代といいます
284( ) 軍人皇帝時代を終わらせたのがディオクレティアヌス帝(位284〜305
305( ) 軍人皇帝時代を終わらせたのがディオクレティアヌス帝(位284〜305
305( ) ローマ、勝ち残ったのがコンスタンティヌス帝(位306〜337)。
313( ) 313年に、「ミラノ勅令」を出して、キリスト教を公認した
320( ) インド、グプタ朝(320頃〜550頃)です。チャンドラグプタ1世。
325( ) キリスト教、ニケーア公会議、アリウス派が異端アタナシウス派正統
337( ) ローマ、勝ち残ったのがコンスタンティヌス帝(位306〜337)。
350( ) ヤマト王権の統一
375( ) これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。
379( ) ローマ、そのあとの重要な皇帝はテオドシウス帝(位379〜395)
380( ) ローマ、テオドシウス帝、380年にキリスト教を国教化します
391( ) 倭軍が朝鮮の百済や新羅高句麗と戦う。
392( ) ローマ、テオドシウス帝、キリスト教以外の宗教の信仰を禁止します。
395( ) ローマ、そのあとの重要な皇帝はテオドシウス帝(位379〜395)
404( ) 404年 倭軍(わぐん)は朝鮮の高句麗(こうくり)との戦いに敗れる。
413( ) 413年 倭王の讃が中国の東晋(とうしん)に使者を送りおくり物を献上
421( ) 421年 倭王の讃が中国の宋の皇帝から称号を与えられる。
431( ) キリスト教、エフェソス公会議
431( ) 438年ごろ 仁徳天皇が死去する?
451( ) キリスト教、カルケドン公会議
476( ) 最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに殺されて滅亡(476年)
538( ) 百済より仏教が伝わる。馬子受入派、守屋 反対派
572( ) 572年 蘇我馬子が大臣(おおおみ)になる。
574( ) 聖徳太子、厩戸王子 用明天皇(ようめいてんのう)の子として生まれる。
587( ) 蘇我馬子が物部守屋(もののべのもりや)と戦争になり、物部守屋をたおす
588( ) 588年 蘇我馬子が法興寺(ほうこうじ 飛鳥寺ともいう)を建て始める。
592( ) 天皇が蘇我氏の権力をけずろうとして、天皇と蘇我氏の対立が起こる
592( ) 592年 蘇我馬子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺す
593( ) 聖徳太子、推古天皇(女性)の摂政(せっしょう)(天皇を助けて政治をする
596( ) 596年 法興寺(ほうこうじ 飛鳥寺ともいう)が完成する
601( ) 聖徳太子、601年 斑鳩宮(いかるがのみや)をつくる。
603( ) 603年 官位12階(かんい12かい)をきめる。
604( ) 604年 17条の憲法(17じょうのけんぽう)をきめる。
606( ) 古代インドの最後の大規模王朝がヴァルダナ朝 中国から玄奘
607( ) 607年 小野妹子を中国(隋)(ずい)におくる。(遣隋使 けんずいし)
608( ) 小野妹子、隋(ずい)の使者の裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。
609( ) 609年 小野妹子が帰国する。
614( ) 中臣鎌足、中臣御食子(なかとみの みけこ)の長男として生まれる。
620( ) 聖徳太子、日本の歴史書の「天皇記」と「国記」(こっき)をつくる
622( ) 622年 聖徳太子が亡くなる(49)
626( ) 626年 蘇我馬子が亡くなる。(?才)
626( ) 蘇我馬子(そがのうまこ)の子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣になる。
626( ) 中大兄皇子626年 舒明天皇(じょめいてんのう)の長男として生まれる
629( ) 629年 推古天皇(すいこてんのう)が亡くなる
630( ) 630年? 天武天皇が舒明天皇(じょめいてんのう)の子として生まれる。
632( ) 632年 僧旻(そうみん)が帰国する。
640( ) 640年 南淵請安、 高向玄理(たかむこのくろまろ)が帰国する。
641( ) 641年 中大兄皇子の父の舒明天皇がなくなる。
642( ) 642年 蘇我入鹿が勝手に人民を集め、蘇我氏の墓を作る。
642( ) 642年 母が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として天皇になる。
643( ) 643年 蘇我蝦夷蘇我入鹿が、聖徳太子の子の山背大兄王と一族をほろぼす
643( ) 蘇我入鹿、山背大兄王の屋敷に攻め込み、自殺させる。
644( ) 蘇我入鹿と父の蘇我蝦夷が戦争にそなえ自分の屋敷を建て直し、厳重にする。
645( ) 645年 大化の改新が始まる。
645( ) 蘇我入鹿が朝鮮からの使者と会見(かいけん)中に大化の改新
645( ) 蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足に暗殺。蘇我蝦夷が屋敷に火を放ち、自殺
652( ) 652年 班田収授の法(はんでんしゅじゅのほう)が実行される。
655( ) 655年 中大兄皇子の母が斉明天皇として再び天皇になる
660( ) 朝鮮の新羅が百済に攻めこむ。朝鮮の百済が救助を求めてくる。
661( ) 661年 百済を助けるため、斉明天皇が九州に向かう。
663(天智02) 百済がほろぶ。
663(天智02) 白村江の敗戦のあと長門城や蜂火台が置かれ
667 ( ) 都を大津(おおつ 滋賀県)にうつす。(大津宮 おおつのみや)
668( ) 中大兄皇子が天智天皇(てんじてんのう)になる。
668( ) 668年 大阪府で行基が生まれる。
669( ) 中臣鎌足(なかとみの かまたり)が死ぬ。
669( ) 不比等 父の中臣鎌足が功績により藤原の姓をたまわる。
670( ) 庚午年籍(こうごねんじゃく)(国の人民の帳簿)がつくられる。
671( ) 近江令(おうみりょう)(国の法律)がつくられる。
671( ) 天智天皇死去(46才)
672( ) 天智天皇のあとつぎをめぐり、壬申の乱(じんしんのらん)がおこる。
672( ) 子の大友皇子と弟の大海人皇子が勝利し、天武天皇(てんむてんのう)となる
673( ) 大海人皇子が天武天皇(てんむてんのう)になる。
680( ) 不比等 長男の武智麻呂(むちまろ)が生まれる。
681( ) 天武天皇が清御原令(きよみはらりょう)をつくりはじめる。
681( ) 不比等 次男の房先(ふささき)が生まれる。
682( ) 天武天皇が「古事記」 「日本書紀」の編集を始める
682( ) 682年 行基が僧になる義淵や道昭(どうしょう)のもとで仏教を学ぶ。
684( ) 天武天皇が八色の姓(やくさのかばね)を決める。
686( ) 天武天皇 686年 死去
688( ) 鑑真 688年 中国(唐 とう)の江陽県(こうようけん)で生まれる。
694( ) 不比等 三男の宇合(うまかい)が生まれる。
695( ) 不比等 695年 麻呂(まろ)が生まれる。
697( ) 不比等 娘の宮子(みやこ)が文武天皇(もんむてんのう)のきさきになる。
700( ) 700年 行基の師の道昭が死ぬ。
700( ) 藤原不比等が刑部親王とともに大宝律令の編集に取りかかる。
701( ) 不比等 701年 大宝律令(たいほうりつりょう)が完成する。
701( ) 聖武天皇701年 文武天皇(もんむてんのう)の長男として生まれる。
701( ) 701年 鑑真が僧となり、修行をはじめる。
707( ) 707年 文武天皇がなくなる。
707( ) 鑑真が唐(とう)の都の長安(ちょうあん)で修行をつみ、名声が高まる。
708( ) 708年 藤原不比等が右大臣になる。
708( ) お金の和同開珎(わどうかいちん)が出る。
710( ) 710年 都が平城京(へいじょうきょう)に移る。 → 奈良時代が始まる
714( ) 聖武天皇714年 皇太子になる。
716( ) 娘の光明子が首皇太子(おびとこうたいし のちの聖武天皇)のきさきになる
717( ) 717年 朝廷が行基(ぎょうき)の活動を禁止する。
718( ) 718年 藤原不比等らが養老律令(ようろうりつりょう)を完成させる
720( ) 不比等 死去(62才)死後、藤原不比等に太政大臣の位をおくられる。
723( ) 聖武天皇723年 三世一身の法(さんぜいっしんのほう)を出す。
724( ) 724年 聖武天皇が天皇になる。
727( ) 727年 行基が大野寺(おおのでら)を建てる。
731( ) 731年 朝廷が行基にしたがう老人にかぎって僧になることを許す。
733( ) 733年 日本の僧の普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)が唐にわたる
737( ) 737年 天然痘(てんねんとう ペスト)が大流行する。
737( ) 桓武天皇 白壁王(しらかべおう 後の光仁天皇)の皇子として生まれる
740( ) 740年 九州の太宰府で藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)が反乱を起す
741( ) 聖武天皇741年 各国に国分寺、国分尼寺(こくぶんにじ)を建設する。
742( ) 鑑真が日本の僧の普照と栄叡(ようえい)に会い、日本に渡ることを決意する
743( ) 聖武天皇743年 大仏の建設を計画する。
743( ) 聖武天皇 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を出す。
745( ) 745年 行基が大僧正(だいそうじょう 僧の最高位)になる。
749( ) 聖武天皇749年 娘を孝謙天皇(こうけんてんのう)にする。
749( ) 行基749年 病死する。(82才)
752( ) 聖武天皇752年 大仏が完成する。
753( ) 753年 苦労の末、6回目にして、鑑真が日本に渡る
754( ) 鑑真 東大寺ではじめて授戒(僧としての資格を与える式)を行う
756( ) 聖武天皇756年 死 去(56才)
758( ) 鑑真 孝謙天皇から大和上(だいわじょう)の位を与えられる。
759( ) 759年 唐招提寺(とうしょうだいじ)を建てる。
763( ) 鑑真 763年 死 去(76才)
767( ) 767年 最澄が近江国(おうみのくに 滋賀県)に生まれる。
770( ) 桓武天皇770年 父の白壁王が光仁天皇(こうにんてんのう)になる。
771( ) 桓武天皇771年 中務卿(なかつかさきょう)になる。
773( ) 桓武天皇773年 皇太子になる。
774( ) 空海讃岐国の豪族の佐伯値田公の子として生まれる。
778( ) 778年 最澄が出家し近江国(おうみのくに 滋賀県)の国分寺に入る
781( ) 781年 桓武天皇(かんむてんのう)が天皇になる。
781( ) 桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)が皇太子になる。
784( ) 桓武天皇長岡京遷都。貴族や寺院の勢力が大きすぎて、天皇中心政治不可
785( ) 785年 早良親王が皇太子をやめさせられる。
785( ) 最澄785年 正式な僧になるために東大寺で戒(かい)を受ける。
785( ) 最澄 比叡山(ひえいざん)にこもり修行を積む。
788( ) 788年 最澄は一乗止観院(後の延暦寺 )を建てる。
794( ) 794年 平安京(へいあんきょう 今の京都)に都を移す
794( ) 空海794年ころ空海が京都に出て、数年間、役人になるために大学で学ぶ。
797( ) 797年 最澄が桓武天皇の内供奉(ないぐぶ 宮廷に使える僧)になる。
797( ) 797年 空海が三教指帰(儒教、仏教、道教比較)を書く。
801( ) 桓武天皇、蝦夷を朝廷にしたがわせるため、坂上田村麻呂を派遣する。
804( ) 804年 最澄が空海(くうかい)とともに中国の唐(とう)に渡る
805( ) 805年 最澄が帰国する。
805( ) 805年 空海が恵果のもとで密教(みっきょう 真言宗のこと)を学ぶ。
806( ) 桓武天皇 806年 死 去(70才)
806( ) 空海が、仏教だけでなく美術、工芸、医学など知識をもって日本に帰国する。
810( ) 空海が嵯峨天皇に認められ、京都の高雄山の神護寺で鎮護国家の祈りを行う
812( ) 812年 最澄が空海(くうかい)から密教(みっきょう)の教えを受ける。
816( ) 最澄が空海との親交停止。最澄が群馬県や栃木県を回り、天台宗を広め伝
816( ) 空海が和歌山県の高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建
821( ) 空海が各地をまわり、苦しむ民衆とともに生き、救おうとした。
821( ) 空海が香川県の満濃池をつくりなおす。
822( ) 最澄822年 病死(56才)
822( ) 822年 空海が嵯峨天皇から東寺をたまわる
823( ) 一乗止観院が延暦寺と改名される。
823( ) 828年 空海が綜芸種智院を建てる。
835( ) 空海835年 高野山で死去(62才)
866( ) 最澄866年 朝廷から伝教大師の名前をおくられる。
903( ) 平将門が鎮守府将軍の平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれる。
921( ) 空海 921年 朝廷から弘法大師のおくり名を与えられる。
966( ) 道長、966年 藤原兼家(ふじわらの かねいえ)の5男として生まれる。
964( ) 清少納言、清原元輔(きよはらのもとすけ)の次女として生まれる
973( ) 紫式部が藤原為時の次女として生まれる。970年?978年?
974( ) 清少納言、父の清原元輔が周防守、清少納言も父とともに山口県に行く。
978( ) 978年 清少納言が父の清原元輔とともに京都に帰る。
981( ) 981年 清少納言が橘則光(たちばなののりみつ)と結婚する。
982( ) 982年 息子の橘規長(たちばなののりなが)が生まれる。
987( ) 道長、左大臣の源雅信の娘 倫子(りんし)と結婚する。
991( ) 991年 清少納言が橘則光との結婚生活に破れて離婚する。
992( ) 藤原頼通が藤原道長(ふじわらのみちなが)の長男 として生まれる。
993( ) 993年 清少納言が一条天皇の中宮(天皇のきさき)の定子につかえる。
995( ) 中宮定子の父の藤原道隆が死ぬ。
995( ) 清少納言は父の後ろだてを失った中宮の定子をもり立てて、支える。
995( ) 道長、995年 都で伝染病が流行し、兄たちがあいつでなくなる。
995( ) 995年 右大臣になる。 藤原伊周を破る
996( ) 紫式部、父の藤原為時が越前守(福井県の国主)になっため、福井へ
996( ) 道長、藤原伊周にやぶれ、太宰府(だざいふ)に流される。
998( ) 紫式部が一人で福井県から京都に帰る。紫式部が藤原宣孝と結婚する。
999( ) 紫式部が娘の賢子(けんし)を出産する。夫の藤原宣孝との仲が悪くなる
1000( )02.00 中宮定子(ていし)が皇后になるが、12月に亡くなる。
1000( ) 藤原道長の娘の彰子が一条天皇の中宮(ちゅうぐう 天皇の妻)になる。
1001( ) 清少納言が宮廷を退く。このころに「枕草子」がほぼ完成する。
1001( ) 1001年 夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)が病死する。
1001( ) 紫式部、さびしさをまぎらわせるために紫式部が「源氏物語」を書き始める。
1001( ) 道長、紫式部を高く評価
1003( ) 藤原頼通が元服して正五位下(しょうごいのげ)をさずけられる。
1005( ) 紫式部が藤原道長の娘で一条天皇のきさきの彰子(しょうし)に仕える。
1006( ) 藤原頼通が正三位(しょうさんみ)となり、公卿(くぎょう)の列に並ぶ
1008( ) 道長娘彰子が一条天皇の皇子 敦成親王(あつひらしんのう)を生む。
1009( ) 1009年 藤原頼通が権中納言(ごんちゅうなごん)になる。
1010( ) 紫式部の書いた日記「紫式部日記」ができる このころ、「源氏物語」完成
1011( ) 1011年 父の藤原為時が越後守(えちごのかみ 新潟県の国主)になる。
1012( ) 藤原道長の娘のけん子が三条天皇の皇后(天皇の正式な妻)になる。
1013( ) 1013年 紫式部が宮仕え(みやづかえ)をやめる
1013( ) 1013年 藤原頼通が権大納言(ごんだいなごん)になる。
1014( ) 1014年 この年の2月に紫式部、死去?
1016( ) 敦成親王が後一条天皇になる。藤原道長が摂政になる。権力をにぎる。
1017( ) 「古事談」に清少納言が尼として生きていたという記録が残っている。
1017( ) 藤原頼通が後一条天皇の摂政(せっしょう)になる。
1017( ) 道長、摂政を藤原道長の長男の藤原頼通にゆずる。太政大臣になる。
1018( ) 藤原道長の娘の威子(いし)が後一条天皇の中身やになる。
1019( ) 藤原道長が出家する。
1019( ) 藤原頼道が関白(かんぱく)になる。
1019(寛仁03) 壱岐、刀伊(とい)が来寇し,国守藤原理忠(まさただ)は防戦して戦死
1027( ) 道長、病死する。(62才)
1028( ) 平忠常の乱。頼通は討伐軍を送る、乱をおさめるのに5年かかることに
1037( ) 藤原頼通の養女の源子(げんし)が後朱雀天皇の中宮になる。
1039( ) 比叡山延暦寺の僧兵が藤原頼通の屋敷に火を放つ
1051( ) 前九年の役、平安時代後期の奥州を舞台の戦役
1051( ) 源頼義の奥州赴任(1051年)
1051( ) 藤原頼通の娘の寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后になる。
1051( ) 藤原頼通建築鳳凰堂阿弥陀如来をはじめとする美術作品が所蔵されている
1053( ) 藤原頼通が平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てる。
1053( ) 鎮守守府将軍となった頼義は安倍氏に対して挑発
1056( ) 頼義、頼時の子貞任が頼義方の陣営を襲撃したとの阿久利川事件、でっちあげ
1057(天喜5 )0900 頼義は朝廷に安倍頼時戦死を報告
1057(天喜05)1100 安倍氏を滅ぼそうと黄海(きふみ)で決戦を挑むが貞任らに大敗
1062( ) 安倍氏滅亡(1062年)
1062( ) 前九年の役、平安時代後期の奥州を舞台の戦役、終了
1067( ) 藤原頼通が関白をやめる。
1068( ) 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位(そくい)する。
1072( ) 藤原頼通が出家(しゅっけ)する。
1074( ) 頼道、1074年 病死する。
1083( ) 後三年の役(1083年-1087年)開始
1087( ) 後三年の役(1083年-1087年)終了
1127( ) 後白河上皇、生まれる。鳥羽上皇の第四皇子
1155( ) 後白河上皇、天皇に
1156( ) 1156年には保元の乱
1158( ) 後白河上皇、32歳で譲位。上皇に(院政開始)、天皇は二条天皇に
1159( ) 翌1159年には平治の乱
1167( ) 平清盛が太政大臣となった仁安二年(1167)から4年が経過したことになる
1168( ) 話は清盛が病に倒れた仁安三年(1168)へと
1169( ) 平資盛嘉応二年(1170)に『平家物語』で有名なエピソード殿下乗合事件を起こ
1170( ) 高麗 武人政権誕生
1171( ) 前回タッキーに変身した遮那王。時は承安元年(1171)だそうで
1175( ) 法然が専修念仏に帰依する(浄土宗の発足)。
1177( ) 鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん)がおこる。
1179( ) 平清盛が後白河法皇の院政(いんせい)をやめさせ、屋敷に閉じこめる。
1180(治承04) 源頼朝が以仁王の令旨を奉じて,相模の石橋山(小田原市)に旗あげ
1180(治承04) 後白河天皇が、第2皇子の以仁王(もちひとおう)を通して、平清盛の追討令
1181( ) 平清盛がなくなる 後白河天皇が院政を再開する。
1181( ) 同年平清盛没。
1181( ) 親鸞(9歳)出家して慈円の門に入る。
1185( ) 1185年には平家滅亡 1185年 壇ノ浦(だんのうら)で平氏が滅びる。
1186(文治02)12.10 『吾妻鏡』12月10日条に〈藤原遠景,鎮西九国奉行人となる。
1190( ) 後白河法王と源頼朝が会い、話し合う。今回は源頼朝は征夷大将軍断念
1192( )03.00 後白河上皇、死亡
1192( )07.00 源頼朝、征夷大将軍
1192( ) 源頼朝征夷大将軍になる。
1201( ) 親鸞(29歳)、法然(69歳)の門に入り専修念仏に帰依する。
1201(建仁01) 叡尊(えいそん)生まれる、鎌倉中期に活躍の僧侶。父は興福寺の学侶慶玄
1206( ) (太祖1)チンギス=ハンはアムール川上流のオノン河畔で即位した。
1207( ) 法然・親鸞など流罪となるが
1211( ) 法然・親鸞、赦免される。
1212( ) 法然没。
1215( ) モンゴル フビライ・ハン生まれる
1222(卓応01) 日蓮生まれる(〜1282(卓応1〜弘安5))安房国小湊に出生
1227(安貞01) 北条時頼、生まれる。鎌倉幕府5代執権。相模守。北条泰時孫,時氏二男
1231( ) オゴタイ(モンゴル) 高麗、征服(第1次)
1234( ) オゴタイ(モンゴル)金、征服
1235(嘉禎01) 叡尊、西大寺に住することになった
1236( ) 叡尊、東大寺において覚盛・円晴・有厳とともに自誓受戒し比丘となった
1246(寛元04) 時頼執権就任,執権職をうかがう一族の名越光時の陰謀を押さえる
1247( ) 時頼、安達景盛と謀って,幕府草創以来の豪族三浦氏一族滅亡(宝治合戦)
1249(建長01) 時頼、相模守となり,新たに引付制度を設置し引付衆を置いた
1252(建長04) 時頼、将軍九条頼嗣を廃し後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍として迎える
1253(建長05)04.28 日蓮は,同寺の僧に法華至上と反浄土教を主張して法華信仰の弘通を始めた
1256( ) 東国に布教に赴いた善鸞(親鸞の子)を義絶。
1256(康元01) 時頼、家督を嫡子時宗に譲り,最明寺に出家して道崇と称す
1257(正嘉01) 大地震
1258( ) 江華島の崔政権(高麗)倒れる(60年続いた)
1260(文応01) 日蓮『立正安国論』をまとめ,1260年(文応1)北条時頼に提出した。
1261(弘長01) 幕府は日蓮を捕えて伊豆伊東に流謫した
1262( ) 親鸞没
1262(弘長02) 叡尊、北条実時の請により鎌倉に下向,関東武土の帰依集め,翌年帰洛した
1264( )05.03 大仏(おさらぎ)朝直(北条時房の子)死亡
1264( )07.04 宗尊将軍、鎌倉去る
1266( )11.00 フビライ 高麗に日本との通好関係仲介迫る
1268(文永05)03.00 北条時宗、3月執権に就任し,
1268(文永03) 蒙古の国書が届けられた 自発的服属か武力による制圧かの二者択一
1269(文永06) 叡尊、般若寺において無遮の大会,非人3,000人に対し人別に米1斗を施与1271(文永08) 念空、然阿良忠,良観房忍性は日蓮とその門弟の言動を非とし幕府に訴えた
1271( ) モンゴル、国号を元と改める
1271(文永08) 異国警固番役。鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて鎮西御家人に課した軍役の一つ
1271(文永08)09.00 幕府は,九州の防衛体制を固め,悪党の禁圧を命じた
1271(文永08) 幕府、文永8年9月高麗の使者によって蒙古来襲の企図あることを知
1271(文永08) 法華信仰者の転向が続出した。この弾圧を〈文永八年の法難〉と呼んでいる
1273( ) 日蓮、法華経こそが人びとを救済するとした『観心本尋抄』をまとめた
1274(文永11) 日蓮、流刑赦免。4月,日蓮は平頼綱と会見,進言したが容れられなかった
1274(文永11)05.00 同年5月,日蓮は鎌倉を出て漂泊の旅にのぼる甲斐身延に滞在し没年まで
1274(文永11)10.00 元寇。蒙古は忻郎らの率いる蒙古軍を壱岐・対馬をへて博多に上陸させた
1275( ) 日蓮、『撰時抄』(1275)
1276( ) 日蓮、『報恩抄』(1276)
1279(弘安02) 日蓮、駿河富士郡におこった信奉者の弾圧に対し救出に努めた
1281(弘安04) 元寇。再び元軍は14万の大軍にて来襲した。
1282(洪庵05)09.00 日蓮病状を癒すため1282年(弘安5)9月,身延から常陸の温泉に向かうが
1282(弘安05)10.13 日蓮死亡(卓応1〜弘安5)60歳
1282(弘安05) 円覚寺建立,宋人の仏光国師無学祖元
1284( )04.04 北条時宗、4歳にて没し,墓所は鎌倉円覚寺寺の仏日庵にある。
1284(弘安07) 叡尊、四天王寺別当の宣旨を賜わる
1286( ) 唯円“歎異抄(たんにしょう)”を著す。
1290(正応03) 叡尊、入滅。90歳。1300年(正安2)興正菩薩の号を勅賜される。
1294( ) モンゴル フビライ・ハン死亡
1299( ) オスマン・トルコ帝国は1299年にオスマン・ペイによって建国され
1300(正安02) 叡尊、興正菩薩の号を勅賜される
1333(元弘03) 鎌倉幕府滅亡
1336(建武03) 建武式目
1336(建元01) 建武3)光明天皇の践祚・後醍醐天皇の吉野遷幸
1343(興国04) 康永2)常陸の関・大宝両城陥落
1348(正平03) 貞和4)楠木正行が四条畷(しじょうなわて)で戦死,吉野行宮が陥った
1358(延文03) 長門、大内弘世が長門守護を兼ねた。
1362( ) オスマン・トルコ、ビザンツ帝国に侵入してブルサを攻略、バルカン半島に進出
1364( ) 反幕の驍将山名時氏帰属
1367( ) 足利義詮 死亡
1367( ) 南朝がある程度の軍事力を組織できた
1372(応安05) 義満が判始を機として将軍としての基本的権限を漸次行使
1392(元中09) 南北朝。明徳3)両朝合体
1402( ) オスマン・トルコ、アンカラの戦いでテイムールに敗れ一旦領土の大半を失った
1453( ) オスマン・トルコ、コンスタンチノーブルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし
1485( ) 蓮如“歎異抄”を書写。
1526( ) オスマン・トルコ、スレイマン1世ハンガリー軍を破り、旧ローマ帝国の2/3征服
1550(天文19) 平戸。ポルトガル船が初めて平戸に入港
1550(天文19) 平戸。フランシスコ=ザヴィエルが布教,キリシタンは藩内の紛争の源へ
1551(天文20) 長門、大内義隆が滅ぶまで大内氏の領国となった。
1557(弘治03) 長門。毛利氏が防長両国を統一し
1559( ) 女真族の諸部族を統一したのがヌルハチ(1559〜1626)
1567(永禄10)08.03 伊達政宗、米沢城に生まれる。
1571(元亀02) 支倉常長、山口常成の子として生まれる。
1587(天正15) 平戸。秀吉の九州征討の際,松浦隆信・鎮信父子秀吉援助し,所領を安堵
1600(慶長05) 平戸、松浦党。関ケ原の戦い以降旧領を安堵されて外様大名
1604( ) 鄭芝竜生まれる 中国,字は飛黄。福建省南安県石井の人
1609( ) 平戸。ボルトガル船が大村領内に去った後,オランダ両館平戸は最盛期
1613( ) 平戸。イギリス(1613)の両館が置かれ,平戸は最盛期
1613(慶長18) イギリス人も平戸に商館を置いた。
1616( ) ヌルハチは、1616年、明から自立して、後金国を建国した。
1618( ) 1648年まで続いたヨーロッパ史上最大の宗教戦争である“三十年戦争
1623(元和09) 3代将軍に家光
1623(元和09) 英商館。初期には利益が少く,イギリス人は平戸を撤退した
1626( ) 女真族の諸部族を統一したのがヌルハチ(1559〜1626)
1626( ) 女真族ヌルハチ、あとを継いだのが、息子のホンタイジ(位1626〜43)。
1627( ) 女真,ホンタイジ,従兄阿敏を朝鮮に出兵させ,朝鮮王仁祖を屈服させた
1624( ) 鄭成功、日本人田川氏の娘を母として平戸で生まれた(田川福松)
1628( ) 鄭芝竜、明の