[ブログ][仏教談義]
11.
欲望の中にあって欲望に執着しない
煩悩の中にあって煩悩に執着しない
22.
親鸞は人間が生まれながらに背負っている業(カルマ)について、これをどう解決すれば良いか、悩みに悩んだようです。
例えば、「歎異抄」には以下のような会話が出てきます。
親鸞は、弟子の唯円坊に対してこう話かけます。
「そなたは、わしのいう事を信ずるか」
「もちろんです」
「それでは、わしのいう事に背かないか」
「その通りにいたします」
「では、まず人を千人殺してくれないか。
そしたら、必ず浄土にうまれられよう」
「おことばですが、私にはただの一人も殺すことが出来ません」
「それでは、どうして親鸞の言葉にそむきませんと言ったのか。
これでわかるだろう。どんなことでも思いのままにできるものなら、
浄土へ生まれるために千人殺せと言われたときに、ただちに殺すであろう。
けれども、一人でも殺さねばならない直接・間接の業縁がないために、
殺さないだけなのだ。自分のこころが良いから、殺さないのではない。
また、殺すまいと思っていても、諸条件が具わったなら、
百人あるいは千人を殺すこともあるだろう」
恐らく唯円は最初わが耳を疑ったことでしょう。
親鸞の口からこのような言葉が発せられることは全く予期しなかったことです。
しかし、親鸞は人間の業についてこれほど重大かつ深刻な問題としてとらえていたのです。
33.
「我々は、この世界の中に生まれてきた」という認識
↓
「我々はこの世界を持って生まれてきた」という認識
44.
自己の意識現象こそが実在する世界だと認識することは、
意識現象の中に存在する事物はすべて自己に属することになります。
(私の意識現象は、私にしか存在しません)
それは、私にとってのあなたであり、世界であるので、
自他という二元対立は起きにくいのです。
従って、すべてが自己に属する世界に私は生きることになり、
極めて具体性を持ってきます。
その瞬間瞬間に、私の意識に飛び込んできた世界に
自己や他者を生かすように対処すれば良いのです。
これが、本当に生きるということであると私は確信しています。